廣度寺の開闢(かいびゃく)は大同年間(9世紀)ごろ。当時、蝦夷地と呼ばれたこの土地は大多鬼丸(おおたきまる)が支配する未開の地とされていました。おそらく、時の朝廷に従わない土着豪族だったのでしょう。そのため、坂上田村麻呂の蝦夷討伐により滅ぼされてしまいます。この「鬼生田(おにうだ)」の地は、この大多鬼丸という鬼が生まれた地ということで「鬼生田」と呼ばれるようになったとされ、この大多鬼丸の威徳を慕って建立された寺院が「廣度寺」とされています。
歴史上の記録に再び廣度寺が登場するのは室町初期の永徳年間(14世紀末)。廣度寺所蔵の銅鐘にこの年号が刻まれています。北朝元号が使用されていることから、この地は親足利の者が治めていたことが推察されます。北畠顕家が「三春の輩」と呼んだ一族かとも言われています。当時の住職名は「應衡(おうこう)」、銅鐘寄進者は「平遠長」と記されていることから、平氏一門の流れを汲む者が支配していたかと考えられます。
戦国期に入ると、この地は田村家の支配下に入ります。大河、阿武隈川に隣接することから要衝の地とされ、戦乱の旅に戦火に遭い何度も伽藍が焼失したそうです。そのような中、田村家家臣団の旗持奉行であった鬼生田弾正顕常がこの地を治めるようになり、廣度寺を菩提寺として復興させたと伝えられています。(開山:本山總持寺輪番三百十世重屋清珍大和尚、開基:廣度寺殿元亨常貞大居士)。
時代は戦国末期、秀吉による小田原征伐が行われ、その遅参の責めを負い、主君であった田村家が取り潰されます。その際、鬼生田の一族の一部は仙台へと移りました。その後伊達家の分家に伴い、四国愛媛の宇和島へと移り住みました。この時期、主を失った廣度寺は荒廃していきます。
丹伊田西荒井にある岩﨑家は、岩城判官政氏を家祖とする一族で、岩城国菊多郡岩﨑村から興ったとされています。一族内紛に敗れ、岩城国から西荒井の地に移り住んだと伝えられています。やがてこの岩﨑家に一人の僧侶が一夜の宿を借りました。すると夢に地蔵菩薩が現わたそうです。この岩﨑家の守り本尊は地蔵菩薩であることからその地に寺院を作り身代り地蔵を祀り供養を行ったそうです。
その寺院が現在の三春清水にある天澤寺です。この岩﨑家が、荒廃した廣度寺を再興するために、自らの菩提寺である天澤寺より和尚を呼び、廣度寺の中興開山としたそうです。
※左は、天澤寺境内にある地蔵堂です。中に身代り地蔵が祀られています。
戊辰戦争の後の世になると、学校制度が整えられ、全国各地に学校が造られました。この廣度寺も、明治六年に時の住職が校長となり、「薫陶小学校」という学校を開設しました。これが後世の「鬼生田小学校」(現在は統合され西田学園義務教育学校)です。
二度にわたる世界大戦は多くの悲劇をもたらしました。郡山市の空襲爆撃では、市内に落とされた爆弾の影響で廣度寺のガラスが割れたとも言われています。多くの若者が戦争に出兵する際に、「必ず生きて帰って来いよ」とコッソリ伝えた時の住職が憲兵に捕まったこともあったそうです。やがて終戦を迎えたものの、戦後の農地解放の影響を受け、廣度寺も多くの田畑を失いました。
激動の昭和が終わり時代は平成。伽藍整備を決意した時の住職が活動を始めます。平成元年に、檀信徒会館(宝珠殿)完成。平成五年鐘楼堂完成。平成十年三門(山門)完成、同十一年接賓北芯庵完成。同十二年仁王像入仏。同十八年新本堂完成。平成二十一年位牌堂完成。同二十三年鬼生明神殿完成、同二十九年坐禅道落成…。平成の時代は、当に廣度寺の伽藍整備のための時代と言っても過言ではないでしょう。
整えられた伽藍を活用し、①写経会、②座禅会、③お経に親しむ会を毎月。隔月で落語会も開催しております。また、檀信徒の皆様にご不幸が起こった場合、伽藍ですべての法要が完結できるよう作られています。